翻訳と辞書
Words near each other
・ ニューブランズウィック市長
・ ニューブリテン (コネチカット州)
・ ニューブリテンクイナ
・ ニューブリテン・ロックキャッツ
・ ニューブリテン島
・ ニューブリテン島の戦い
・ ニューブリーズ号
・ ニューブリード
・ ニューブリー競馬場
・ ニューブロック
ニューブローンフェルズ (テキサス州)
・ ニュープリマス
・ ニュープリンス高速バス
・ ニュープロビデンス島
・ ニューヘイブン
・ ニューヘイブン (コネチカット州)
・ ニューヘイブン・オープン
・ ニューヘイブン植民地
・ ニューヘイブン線
・ ニューヘイブン郡 (コネチカット州)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ニューブローンフェルズ (テキサス州) : ミニ英和和英辞書
ニューブローンフェルズ (テキサス州)[す, しゅう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブロー : [ぶろー]
 【名詞】 1. blow 2. (n) blow
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

ニューブローンフェルズ (テキサス州) : ウィキペディア日本語版
ニューブローンフェルズ (テキサス州)[す, しゅう]

ニューブローンフェルズ(、)は、アメリカ合衆国テキサス州中央部、コマール郡グアダルーペ郡に跨る都市である。市名の「ブローンフェルズ」という言葉はドイツ語で「褐色の岩」を意味しており、ドイツヘッセン州にあるブラウンフェルス町から名付けられた。町にはドイツ系アメリカ人が多い。19世紀には、英語を話す人であっても町の名を ''Neu-Braunfels''と綴ることが多かった。2010年国勢調査では人口57,740人だった。2012年の推計では60,761 人であり、2000年時点の36,494人から66%成長している。コマール郡の郡庁所在地であり、サンアントニオ・ニューブローンフェルズ大都市圏の主要都市である。
== 初期の歴史 ==

ニューブローンフェルズの町は1845年にアーデルスフェライン、すなわち「貴族の協会」の総支配人だったゾルムス=ブラウンフェルスのプリンス・カールが設立した。プリンス・カールはその故郷であるゾルムス=ブラウンフェルスから町の名前を付けた。
アーデルスフェラインはテキサスに入植するためにドイツで数百人の人々を組織した。ドイツからの移民は1844年7月にガルベストンに到着し始めた。その大半は12月に船でインディアノーラに移動し、プリンス・カールが購入していたフィッシャー=ミラー払い下げ地に陸路向かい始めた〔King (1967) p.53〕。開拓者たちは冬になる前にさらに内陸で家を建てたり作物を植えたりする時間が無いであろうことを認識したジョン・コフィー・ヘイズの勧めで、グアダルーペ川に沿って内陸に移動しているときに、コマール・スプリングス近くで停まった。プリンス・カールがラファエル・ガルサとマリア・アントニオ・ベラメンディから2リーグ (46 km2) の土地を1,111ドルで購入した〔King (1967) p.37〕。
その土地はサンアントニオの北東、エル・カミノ・レアル・デ・ロス・テハス沿いにあり、ドイツ人が到着した時は「ラス・フォンタナス」と呼ばれていた清水が多量にあふれ出るコマール泉があった。そこはインディアノーラとフィッシャー=ミラー払い下げ地下流部のほぼ中間にあった。最初の開拓者たちは1845年3月21日(聖金曜日)に、現在のファウスト通り橋近くでグアダルーペ川を渉った。
1845年春の間に、開拓者たちはアーデルスフェラインの土木技師ニコラウス・チンクが名付けた砦「チンケンブルク」を建設し、土地を分割し、家を立て、作物を植え始めた。プリンス・カールも移民協会の恒久的砦と町の中心であるゾフィーエンブルクのために礎石を据えた。
プリンス・カールは1844年に植民地の計画に大層失望したので、協会に総支配人から外し、後継者を指名してくれるよう求めていた〔King (1967) pp.35-38〕。ジョン・O・ミューゼバッハが到着したとき、プリンス・カールには事業経験がなく、会計記録を維持することを拒んでいたこともあり、財政状態は混乱していた。アーデルスフェラインは貴族の組織であり事業運営のための実務的経験が無かったので、ある程度そのような財政状態になった。協会は地球の反対側にあり、プリンス・カールとミューゼバッハが扱っている状況を目撃していなかった。ヘンリー・フランシス・フィッシャーは協会が前もって彼に渡した金で交通費や物資を供給しいなかった。ミューゼバッハはガルベストンで、ドイツに戻ろうとして料金が払えないために当局に拘束されていたプリンス・カールを見つけた。ミューゼバッハが負債を支払ったので、プリンス・カールは出発できた〔King (1967) pp.52-58〕。
ミューゼバッハは、プリンス・カールが入るべき港として不適切なカールスハーフェンを選択したこと、またニューブローンフェルズへの孤立した経路はドイツ人がアメリカ人と交わらないよう慎重に選ばれていたことが分かった。ニコラウス・チンクに拠れば、プリンス・カールは、密かに移民を誘導し軍事的要塞に入れることでドイツの封建国を設立する計画だった。貴族の称号を放棄していたミューゼバッハは異なる方法を選び、協会の領土にアメリカ人も入植するようにした〔King (1967) pp.59-60〕。
オーストリア帝国軍の士官だったプリンス・カールは、インディアノーラに画一化した軍隊を準備させていた。ミューゼバッハはこの部隊をより必要とされる細かい仕事に宛てた〔King (1967) p.63〕。植民地の財政と事業はミューゼバッハが軌道に乗せた〔King (1967) p.64〕。開拓者には適切な食料と住まいを与えた〔King (1967) p.65〕。1845年8月11日、ハーマン・フリードリヒ・ゼーレがニューブローンフェルズのドイツ系英語学校で最初の教師になった〔King (1967) p.66〕。ミューゼバッハは地元のインディアン、ウェーコ族とも良好な関係を築いた。ウェーコ族はミューゼバッハの赤っぽいブロンドの髪を見て、「マベクォシトム」すなわち「頭に燃える髪がある酋長」と呼んだ〔King (1967) p.67〕。
1846年5月、ミューゼバッハはカステル伯爵から、4,304人の移民がテキサスに向かっているということを知らせる手紙を受け取った。資金も無く入るべき新しい開拓地も無かったので、大勢の移民はカールスハーフェンで立ち往生した。ミューゼバッハは協会にさらに金を要求し、協会のために破産しかかっているという警告も何の結果も生まなかった。ミューゼバッハは最後の手段としてD・H・クレーナーにドイツのニュースメディアに窮状についての記事を掲載するよう指示した。協会はこの記事に当惑し、6万ドルの信用状を発行した〔King (1967) pp.75-83〕。この金額はテキサスにいるドイツ移民全体を支えるには不適切だったが、カステル伯爵も特別支配人としてフィリップ・カッペスを派遣して状況を観察させた。カッペスはカステルから、ミューゼバッハを監視し、毎日詳細を報告するよう指示を受けてもいた〔Morgenthaler (2007) p.56〕。カッペスが1847年3月に出発する時までに、さらに20万ドルを送金するよう推奨していた〔King (1967) pp.96-101〕。
カッペスはヘンリー・フランシス・フィッシャーをニューブローンフェルズに招いたが、フィッシャーは完全に協会を信用している訳ではなかった。1845年2月11日、フィッシャーは新しく到着した移民から、協会を離れるつもりであることと、フィッシャーの友人フリードリヒ・シューベルト、別名フリードリヒ・シュトルブバーグと提携するつもりであるという文書に署名を強制されていた。
ミューゼバッハが1846年12月31日にフィッシャーを朝食に招待した時、カッペスは町に居なかった。町の周りにポスターが意味ありげに貼られて、「奴隷の操縦者ミューゼバッハに呪いあれ」と書かれてミューゼバッハを中傷しており、「独裁者」から開拓者たちが自由になるよう駆り立てていた〔Johnson (2009) p.10〕。ルドルフ・イオンスキが率いた集団がミューゼバッハの家に押し寄せ、開拓者のC・ハーバーが鞭を振り回した。ハーバーは、カステル伯爵が庇護を与えた偽造者とされる人物だった。ミューゼバッハとハーバーは互いを毛嫌いしていた〔King (1967) p.98〕。
開拓者達は、ミューゼバッハが総支配人を辞職し、フィッシャーに植民地を委ねることなど要求項目の一覧を持っていた〔Morgenthaler (2007) p.61〕。ミューゼバッハは落ち着き払っていたが、集団は熱してきており、「彼を吊るせ!」と叫んだ。この推計120名の集団が解散した時、フィッシャーの姿はどこにも見つからなかった。同じ日の夜、別の集団が集まり、ミューゼバッハの側に立つことを誓い、翌日には暴徒の行動を非難する決議案を成立させた〔King (1967) p.103〕。ミューゼバッハ自身は1845年11月には既にテキサスを去ることを考えており、この時カステル伯爵に職を辞してドイツに帰るつもりだと手紙に書いていた。ミューゼバッハはアーデルスフェラインがその目的を達せられるような組織になっていないことを感じていた。暴徒がニューブローンフェルズを訪れた後、1847年1月23日にカステルにあてて、財政報告書を添えた辞表を再度提出した〔King (1967) pp.110,125〕。
ミューゼバッハはトーリー兄弟と移民を内陸に運ぶよう手配していたが、アメリカ合衆国はトーリー兄弟を米墨戦争に使うために雇用していた〔King (1967) pp.85,87〕。カールスハーフェンで髄膜炎が蔓延し始め、ニューブローンフェルズとフレデリックスバーグの移民の間に広がった〔King (1967) p.88〕。
ミューゼバッハは町の財政を安定させ、開拓者たちにはさらに隣の町を建設するよう促した。これら二次的開拓地のうち最大のものが、ニューブローンフェルズから北西に80マイル (128 km) のフレデリックスバーグだった。
ニューブローンフェルズは繁栄を始め、1850年までに人口1,723日と、ガルベストン、サンアントニオ、ヒューストンに次いでテキサス州第4位の都市になっていた。1852年、新聞「ツァイトゥング」が発行され、ドイツ系テキサス人植物学者のフェルディナンド・リントハイマーが編集した。この新聞は現在「ヘラルド・ツァイトゥング」という名前で発行を続けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ニューブローンフェルズ (テキサス州)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.